『夏に映す未来』


幻想郷は夏。
気温の上昇は留まることを知らず、燦燦と太陽の光が降り注ぐ。
蝉は我が季節と言わんばかりに鳴き、一層体感温度を上げてくれる。
まだ夏は、始まったばかりである。

マヨヒガ。
人間の里から離れた地にある、木造建築の一軒家。
縁側に腰掛ける女性が一人、その背後に立つ女性が一人。
陽炎が立ち上る庭を二人は無言で眺める。
その無言は重々しいものではなく、どちらかと言えば暑さからくる気だるさのような雰囲気を纏っている。
胸元が大きく開いたドレスを着た女性――八雲紫は、縁側からおもむろに立ち上がった。
「ぁー――藍。貴女、クビ」
「…………は?」
開口一番、紫は気だるげに言い放った。
言われた女性――八雲藍は、主の不意の言葉に思わず感じたままの返事をしてしまった。
「なかなか面白い反応ね。冗談よ」
「……はあ」
暑さの余りにとうとう頭のネジが融解したか、いや前からか、などと藍は茶飯事的に脳内処理を施しつつ曖昧な言葉を返した。
一体何に対して向けたクビなのかはきっと紫の思いつきで、考えても無意味なので考えないようにする。
「しっかし、暑いわねえ。暑くて境界が捩れてるわ」
「ええ、夏ですからね。境界の捩れは直して下さい」
紫は何処からか取り出した扇子を開き、大仰に煽ってみせる。
「暑いわー。本当に暑い。藍、貴女はそんな一杯尻尾抱えて暑くないの?」
「毎年言ってますね、それ。慣れましたので別にそれほど暑くありません」
「冬は便利そうだけど、夏はいらないわねー」
ぱちん。紫が扇子を閉じると、あたかもそれは初めから存在していなかったかのように消えた。
「さて、と」
白魚のような紫の手が眼前の虚空を撫でると"空間が口を開いた"。
リボンで綴じられた裂け目の向こうには澱んだ濃紫の空間と、生物らしからぬ瞳が無数に浮かんでいた。
「避暑がてらに境界でも直してくるわー。明日には帰るから、今日は適当に遊んでなさい」
「適当に、ですか」
「そうそう、ウチには遊び足りない子がいるでしょう?たまには相手してあげないと、擦り寄ってくれなくなるわよ?」
ううん、と藍は顎に手を当て首を傾げた。
「じゃ、行ってきます」
「……お気をつけて。明日のご夕食は?」
紫は境界から顔だけ出して頬を膨らませた。
「……お昼には帰る。冷たい素麺が食べたいわ」
「用意しておきます」
楽しみにしているわ、と一言残し紫は境界に身を沈める。
同時に境界は閉じ、そこにはただ陽炎が揺れる庭だけが残った。
紫が行ってしまったのを確認してから、藍は身を翻した。
「遊んでなさいって……ううん」
律儀に言いつけを守るわけではないが、こうも暑いと何も考える気が起こらない。
どうしたものかと考えていると、ふと視界を黒いものが過ぎった。
藍は何となく予測はつく、その"黒いもの"を追って玄関に向かった。

「あ、藍さまー」
猫の耳を生やした少女が人懐っこそうな笑顔を藍に向けた。
「お出掛けですか?お使いですか?」
「ああ、橙。いや、別にそういう事は無いんだが」
橙と呼ばれた少女は、小首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「いやなに、紫様が境界の修復に行かれたから暇が出来てな。どうしたものかと考えていたところなんだが」
その言葉を聞き、正に猫のように橙の瞳が輝いた。
「でしたら、一緒に里に遊びに行きましょうよ!」
藍の服の裾を引く。
確かに、橙と二人で何処かへ出掛けるということは今まであまり無かった。
「……そうだな、ただ行くだけでは面白く無い」
それだけでも楽しいですよ、と言う橙を横目に藍は視線を泳がせた。
「――どうだ、今日一日は私が橙の式になるというのは?」
「え、えええ!? い、いいんですか?」
「いいだろう。今日一日は、私は橙の言うことに従おう」
橙は指を立てながら中空を見上げ、何やら唸りながら思考に耽る。
やがて、何かを思いついたように手を叩いた。
「よし!ら……藍!里に行くぞ!」
「……はい、橙様」
藍は橙に手を引かれ、マヨヒガを後にした。

こうして、藍の『式の式の式としての一日』が始まった。


里へと続く街道も、言うまでもなく酷暑を極めた。
マヨヒガのように木々が周囲に無い分、余計に気温の上昇が顕著に感じられる。
ただ、梅雨時期のように湿度が高く纏わりつくような不快感は覚えられない。
強いていうなら夏らしい“熱さ”だった。
乾いた土を時々上げ、陽炎が立つ街道を二つの足音がリズムよく進んで行く。
橙は時折暑そうに手の甲で額の汗を拭っていた。
「そういえば藍さ……ら、藍。何処か行きたいところはあるか?」
言葉の端々に頑張っている部分が垣間見え、藍は思わず頬を綻ばせた。
「いいえ、私は特にありません。何処へでもお供させていただきますよ」
「うんと……冷たいもの……かき氷が食べたい!」
「では、甘味処ですね」
満足そうに頷いた橙は、足取り軽く歩を速めた。それに併せて、手を引かれる藍の足取りも自然と早まる。
相も変わらず聞こえるのは鳴き止まない蝉の声。
無風の街道は草さえもそよがず、上昇し続ける体温に口を開くだけで体力が削られそうにも感じられた。
やがて、蝉の合唱に混ざって人の喧騒が混ざり始めた。里が近付いてきたようで、人の気が強くなってきた。
「里の外れで移動しながらかき氷を売っている屋台があるんだけど、そこのかき氷が美味しいんだ!」
「ああ……あれですか。よく御存知で」
昔、藍が橙を式として使うようになる前、紫に連れて行かれたことがある。
その時も今日のような酷く暑い夏の日だったことを藍は記憶していた。
商店街に入ると急に蝉の声が聞こえなくなり、人の活気が押し寄せてきた。
商売に勤しむ人々は流れる汗を拭うより、笑顔の接客に撤していた。いっそ清々しいというものだ。
藍は普段からこの商店街を利用している――と言うか、最寄りの店はここぐらいしかない上、ここで全てが事足りる。
「おう、八雲さんとこの!今日はいい夏野菜が入っていますよ!連日の酷暑でよく熟れてますよ!」
馴染みの八百屋の主人が威勢良く声をかけてきた。そろそろ五十も近い歳だというのに、腰一つ曲がっていない男性だ。
「おや、今日は嬢ちゃんも一緒かい?いいねえ!」
この場合威勢の良さ、つまるところ声の大きさを意味するわけであるが。
その勢いに乗せられたのではないが、主人が勧める品をひとしきり購入した。
なるほど、出来の良い豊作は価格を目に見えて動かす。主に安価へと。
何時も通り袋詰めにした商品八百屋の主人が橙に手渡そうとするのを、代わりに藍が受け取る。
「はい、毎度ありがとう!おっと、これもオマケしておくよ!」
何時もなら藍が受け取るはずの『オマケ』である夏蜜柑を橙が受け取る。
「はい、藍」
「ありがとうございます」
普段と全く逆の光景に、八百屋の主人は笑顔のまま首を小さく傾げた。
買い物袋とオマケを藍が受け取り、それを橙に渡すという光景に見慣れているならば当然と言えば当然である。
「いや、まあ……そういうことなんです」
藍の笑みをどう受け取ったかは定かではないが、納得したように主人も笑顔で頷いた。
「いやあ、若いということは羨ましいですなあ!」
本当に、どう受け取ったのだろうか。

夏の道は続く。
商店街外れの甘味処。甘味処、とは言ったものの店を構えているわけではない。
『甘味処』という看板を抱えて移動を続ける屋台である。ここが、この地で初めて『かき氷』なるものを売り出したと言われている。
「かき氷二つ……」
「一つ下さい!イチゴで!」
藍の声を遮り、橙が注文を告げる。
「はい、イチゴ一つですねー。少々お待ち下さい」
割烹着の女性が笑顔で屋台の中から人の頭ほどの氷を取り出し、かき氷機で削り始めた。
里外れにある道具屋がこういった『外の道具』を扱っている。
ただ、店主の関係でそれらを売ることは珍しく、又それらを買う人は更に少なく、正しい使用用途で成功した――というよりも価値を見出せた――人は最早彼女ぐらいしかいないと言っても過言ではないだろう。
今となっては何処の甘味処でも出される定番のメニューになっているが、先駆けあってのものである。
粉砕された氷は皿に盛られ、イチゴの絞り汁に砂糖水を混ぜたものがかけられた。掬うための小さな木へらが刺され、橙に手渡される。
「はい、ありがとうございます」
橙が小銭と引き換えにかき氷を受け取る。
木へらで掬って一口頬張ると、幸せそうな笑顔を浮かべた。そしておもむろに藍に向き直った。
「……ほら藍、あーん」
へらに乗せた氷を藍の口元に差し出す。藍は一瞬躊躇うような表情を見せたが、ゆっくりと口にした。
「美味しい?」
「……はい、美味しいです」
こうして交互に食べている内に、一つのかき氷はあっという間に無くなった。
普段とは全く逆の行為。本当にただそれだけなのに、不思議と心が躍る。
「藍……次は、雑貨屋さんに行きま……行こう」
「はい」
再び橙に手を引かれ、里の通りに戻っていった。

雑貨屋。
日用雑貨を中心に時には弁当すらも扱う、所謂『何でも屋』的な存在である。
実際、里近辺には専門店というよりもこういった雑貨屋の数が多い。
ただ置けるから置いておく、と言った程度の感覚で様々な物が陳列されていることが多い。
「ここは……」
「ここは、藍……がこれを買ってくれた場所だよ」
橙は頭に乗せた緑の帽子を取り、自分の耳を動かした。黒い猫の耳に金色の輪の耳飾が一つ、輝いている。

  ■  ■  ■

橙が藍の式になった頃。

ふと、藍は橙の耳に穴が開いていることに気がついた。
「……おや……? 橙、その耳の穴はどうしたんだ?」
「え?……あ、本当だ……何時できたんでしょうね」
藍に言われ、本人も触って初めて気付いたようだった。
「……まあ、大方遊んでいた時に引っ掛けた傷が穴になったというところかな。化膿していなくてよかったが、今度から気をつけるんだぞ?」
ごめんなさい、と頭を下げる橙。
「ふむ……よし橙、ちょっと着いて来なさい」
「え?へ?な、何ですか藍様ー!?」
藍は橙の手を取って、マヨヒガを飛び出した。

「これをあげよう、橙」
橙がつれてこられたのは、里の雑貨屋だった。
「耳飾……ですか?」
「ああ。流石に耳に穴が開いた状態は格好が悪かろう。橙も女の子なんだから、身だしなみには気をつけるんだぞ?」
「あ……は、はい!ありがとうございます!」
金の輪の耳飾りが一つ、かちんと音を立てた。

  ■  ■  ■

「……ああ、そうだった」
「あの時は本当に嬉しかった……」
うっとりと浸るように語る橙。実のところ、藍はその事を無意識に記憶の奥に追いやっていた。
その後、リボンとかそういったもっと可愛らしいものの方が女の子らしかった、と自己嫌悪に陥った記憶があったからだ。
「だから、今度は私が贈り物をする番だ」
そう言うと橙は鼻歌混じりに雑貨屋の奥に消えて行った。
ここは待つべきかと考え、藍は入り口付近で橙が戻るのを待った。
ぐるりと店内を見回す。
食器が積んであると思えば、その上に小さな植木鉢があり、その上に花が挿してある。
植木鉢にもたれかけさせてあるのは植物の育成に用いる支柱が数十本に、鋤や鍬などの農作業道具。
つつけば倒れそうなほど不安定なはずの農作業道具の上に、藁籠や草鞋などの藁編み物が積み重ねてある。
雑貨に溢れた環境で過ごしてきた時間が成せるある種の職人技、感心せざるを得ない。職業病とも言うか。
「はい、毎度ありがとう!」
奥の精算所から店主の声が聞こえ、軽快な足音が聞こえてきた。
何かを抱え、奥から橙が戻ってきた。
「はい、藍!これ!」
橙が今し方買ったと思われる何かを藍に手渡した。
痩せ細った目玉の大きな灰色の人型の作り物だった。
「これは……?」
「『由緒正しいウヌャニュペェィギャゥリュ星人人形』だって」
「ウニュニャ……人形……?」
「『由緒正しいウヌャニュペェィギャゥリュ星人人形』!
家内安全魔除けに安産、学業成就に毎日元気にご飯が美味しくなる御利益が沢山詰まった人形なんだって!」
どう見てもこの世の生物とは思えない人形だった。神や天上のそれとも違う。
この由緒正しい(中略)人形とやらは魔除けらしいが、藍には邪神を模した象か、スキマ向こうに潜む異形に見えた。
「いや……あ、ありがとう……ございます」
「うん、大切にしなさい!」
藍は両手で人形を持ち、顔だと思われる部分を見る。
大きくて黒い無機質な瞳と目が合ってしまった。
不気味ではあるが、不思議と可愛げがあるように感じられた。
「これが……紫様が以前言っていた『りとるぐれい』という者を模したものか……」
「次は――ほら、行くよ!」
「あ、はい!」
橙に手を引かれ、藍は慌てて人形を懐に収めた。その拍子に、ひらりと一切れの紙が地に落ちた。
『MADE BY ALICE』と書かれた紙が。

陽はほとんど沈み、緋色に染まった部分も消えた。
何時しか蝉の声は止み、代わりに辺りからは蛙の鳴き声が耳につくようになりつつあった。
暗くなり流れ始めた風により日中と比較すると体感温度は大きく下がった。
紺碧の闇に染まった空に月は無く、無数の星がばら撒いたように瞬いている。
二つの影が迷いの竹林を歩いて行く。
「ここから行くとみすちーの屋台が近いんだ」
この近辺で遊び慣れているのか、藍の手を引く橙の足取りは軽い。
竹林で迷い慣れている――という表現は変だが――そんな者でも無い限り、普通は道を外して歩くことは避ける。
昼間でも迷い易い道を、陽が暮れてから外れるなど半ば自殺行為に等しい。
「ほら、提灯が見えてきた」
ゆったりと揺れる赤い光が、青々と茂る竹の合間から見えてきた。
夜雀が営業している焼き八目鰻の屋台である。
屋台の姿が近付いて来るほど、甘辛いタレが炭火に焦げる香りが強くなり、食欲が刺激される
「あ、橙ちゃん!いらっしゃーい!」
こちらの姿が見えたのか、屋台で八目鰻を焼く夜雀の少女――ミスティア・ローレライが手を振った。
屋台の席には既に潰れた先客がいた。
「うぅ〜……ひっく」
青いワンピースに身を包み、氷の羽を背にした妖精の少女――チルノである。
真っ赤な顔をして、屋台に突っ伏している。酷く酔っ払っているようだ。
その隣に藍と橙は並んで座る。
「こんなに呑ませても大丈夫なのか……?」
「あ、大丈夫ですよー。だってチルノちゃんが飲んでいるのは蜂蜜水だし」
「お酒じゃなくても酔えるって凄いよね……」
雰囲気に酔う、とは言うがここまで酔えるのは並のことではない。
「お腹減ったぁー、みすちー適当にお願い!」
「適当にって言われても八目鰻しか無いけどね」
じっ、と熱せられた炭から火花が上がった。
「……はい、どうぞ。あ、お酒はいります?」
「ああ、いただくよ」
「私もー!」
差し出された皿には数枚の鰻の蒲焼に山椒が振り掛けられたものが盛られていた。
ミスティアは棚の下から酒瓶を取り出し、二つのグラスに一升瓶の中身を八分程度に注いだ。
「……もうそろそろ、式ごっこは終わろうか」
「あ……はい」
「どうだった?」
「何か、喋り方とか細かいことがちょっと変わっただけなのに、何か周りが変わったような感じがしました!」
満面の笑みで橙は答えた。
「それはよかった……どうして中々、橙に敬語を使ったりするのも難しかったぞ」
「私も、時々藍様って言っちゃいそうになっちゃいました」
まあごっこ遊び程度だったがな、と藍は小さく笑った。
「……ぇぅー」
屋台に突っ伏したまま、チルノが頭を動かし藍と橙を見た。
「あー、ちぇーん……に……もふもふー……」
「あ、ちょっとチルノちゃん!?」
チルノはミスティアが酒を注いだグラスを勝手に手に取り、ふらふらと橙に歩み寄った。
「おーし、飲めー!」
「うにゃっ!?むぐぐ」
そのままグラスの中の液体を橙の口に流し込んだ。蜂蜜水ではなく、普通の酒を。
そしてほとんど一滴も零さず、橙の体内に取り込まれた。
「あ、おい!橙、大丈夫か!?」
「…………」
藍が慌てて呼びかけるが、橙は座った目のまま微動だにしない。
「いい飲みっぷりだー!あははははー」
「チルノちゃんが萃香みたいになってるー!?」
聞いているのか聞いていないのか、チルノはけたけたと笑い続けている。
「……らーん!」
「は、はい!」
橙が急に大声を張り上げた。それに対し、藍は無意識に返事をした。
酒の回りが早い体質のようで、よく見れば橙の顔はもう真っ赤になっていた。
橙は更にもう一つのグラスに注がれた藍のものと思しき酒を手に取り呷った。
「あ、おい……呑み過ぎだぞ橙」
「……ぷはっ。今日の藍私の式でしょおー!だからいいのー!みすちー、おかわり」
ミスティアの前にグラスを置き直し、出された焼き八目鰻に齧り付いた。
「もう……無茶な呑み方し過ぎだよぅ……」
そう言いつつも、ミスティアはグラスに酒を注ぐ。
「……まあ、今日ぐらいは……いいか」
ミスティアが注いだグラスの一つを受け取り、藍もグラスに口をつけた。
キンと冷えた酒が喉を駆け、胃に辿り着きカッと熱くなる。

時間が、ゆっくりと流れる。

酒が感覚を鈍らせたか、心地よい時間が世界を遅くさせたのか。
それとも此処≪幻想郷≫では元々時間など遅いものだったのではないか。
そう錯覚を覚えるほど時が緩く流れていく。
「―――ぁー、だからっ!もっと藍はぁー、私に構うのー!」
「―――……もう、橙ちゃんその辺にしておこうよぅ」
「……ぅぇー」
チルノは浅いまどろみの淵を行き来しており、橙は趣旨こそ右往左往しているが延々と愚痴に近い内容の言葉を吐き続けている。
違いはあれど、二人共力無く屋台に突っ伏している。
正気を保っているのは藍とミスティアだけだった。
「大分『よい』も深くなってきたな……そろそろ帰ろうか」
「はぃー……」
橙は藍の言葉に首を縦に振った。
聞こえてはいるようだが、返ってきたのは半ば寝言のような返事だった。
「立てるか?」
「……んー、おんぶー」
「チルノちゃんじゃないって」
「……んー、おんぶー」
「……仕方ないな」
藍が橙に背中を向けてしゃがむと、意外に機敏な動きで橙はその背中に乗っかった。
「勘定だ……ご馳走様。また来るよ」
「あ、お粗末様でした。……はい、また来て下さい――出来れば、皆さんで」
藍が代金を置くと、ミスティアは会釈して受け取った。
「商売上手で何よりだ……そうさせていただくよ」
「あはは……道中、お気を付けて」
「にゅー……もう呑めない……」
「ああもう、チルノちゃんも帰らないと駄目だよう!」
長居する客に声を上げる屋台の看板娘の声を聞きながら、橙を背負った藍は自宅へと歩き始めた。

提灯の赤が次第に離れていき、ほの暗さが闇へと変わっていく。

視界は暗かった。でも、その背は温かかった。
「――ああ、懐かしいな」
返事は無かったが、背中の橙の手に僅かな力が籠もったことが感じられた。
別に聞いていないならそれで構わない、と言わんばかりに藍は続けた。
「橙に話したことはあったかな
私が紫様の式になったばかりの頃、私もこうやって背に負われて帰ったことが何度もあった」
宝物を慈しむように、藍の思い出の引き出しが優しく紐解かれる。
「笑える話ではあるが、私も昔は加減を知らず呑み過ぎや食べ過ぎなどをよくしたものだった」
自嘲、というよりは愛らしいものに出会った時のような柔らかな笑みを浮かべた。
「その度に紫様の背中には世話になったものだ。今となっては私が背負う側になってしまったよ」
「…………」
橙の耳がぴくりと動き、藍の背を軽く打った。
何れは――何時の日か、橙もこうして誰かを背負うのだろうな。
そう言の葉を紡ぎ掛けて、藍は口を閉じた。
それはもしかしたら近い未来かもしれない。だが、遠い未来かもしれない。
藍は片手で橙を支えたまま、もう片方の手で橙の頭をそっと撫でた。
その温もりが、堪らなく愛しかった。

視界は暗かった。でも、手は温かかった。
今はまだ、橙は主である藍に甘えていることが多い。
藍が言おうとしていたことは何となく橙は勘付いていた。
(……何時の日か。私も誰かを背負うことになるのかなあ)
橙は朦朧とした意識の中、漠然とその姿を想像していた。
(……今日みたいに"懐かしい"と伝えるのかなあ)
その姿はまだ薄靄がかかっていて、明確にその全貌を捉えることはできない。
それはこの先に創られる未来であって、まだ定まっていないから。
何処か笑い話でもするように、藍のように話せるかはわからない。
(でも、できることなら―――)
橙は無意識に耳を動かし、藍の背中を軽く叩いていた。
藍の手がそっと橙の頭を撫でた。
(……できることなら、もう少しこの手に撫でられていたいな―――)
その温もりが、堪らなく愛しかった。


―――行き交う夏の陽炎に映した、鏡のように。

堪らなく愛おしい胸の温もりを抱いて、未来を歩んでいく。


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