『冬に舞う夢』

 


「そんなに泣いて……負けたのかい?」

「……―――ッ!」


輪郭の無い記憶が褪せていく。

まるで悠久の時を眺めてきた古ぼけた時計のように。

まるで懐かしむ余りに日焼けをしてしまった写真のように。

手の届かない所へと。

(……無くしちゃ、駄目なんだ)

錆び付いた秒針がために動くことを待ち続ける長針のようなもどかしさ。

手を伸ばしても届かない、夢。

行き交う幻の中に、見失ってしまいそうだったから。

届かないと理解していても、俺は。

手を伸ばした。

 

浅い微睡みから自己を引きずり出す。
「……いけね、また寝てた」
近々に受験を控えた冬。
俺は睡魔と戦いながら机に向かっていた。
勝率は五分五分と言いたいところだが、やや睡魔が優勢か。
普段から机に向かう癖がないため、いざ机に座ると苦しい。
机の隅に転がっていったペンを握り直し、再び無機質な文字列の解読に掛かる。
「……」
この古典の読解が人生で何の役に立つのだろうか。
数学の関数が、方程式が、ベクトルが、何の役に立つのだろうか。
無数の化学反応式が何の役に立つのだろうか。
一度はそんなことも考えた。
しかし、すぐに自分で答えに行き着いた。
簡単なことだ。
その意味のないことができる者こそが良い大学に入れ、楽な仕事に就ける者なのだ。
何のために。大学に入るために。
「……チッ」
インクが切れてしまったボールペンをゴミ箱に投げ込んで立ち上がる。
運悪く最後のペンのインクが切れたのだ。
クローゼットにかけられたコートを羽織って下宿しているアパートを出る。
親はいない。
今頃両親は空の上でぬくぬくとやっているだろう。
時刻は午後四時を過ぎていた。辺りは薄暗い。
雪でも降ろうか、という天気だ。
「……寒」
小さく身を震わせて、最寄りのコンビニに向かった。


「ありがとうございましたー」
機械的且つ模範的な店員の挨拶を受けながら店を出る。
ボールペンのついでに肉まんも二つ買った。
行き交う鋼鉄の塊。
明滅する街灯並木。
肩を潜め早足で歩く人々。
世知辛い世の中だ。見ているだけで疲れる。
口から漏れる白い息が背後に流れるのを見送り、赤が消えた信号を渡る。
俺はきっと疲れているのだろう。
目に入るものの全てを否定したくなる。
下宿しているアパートまであと五分、という所で俺は足を止めた。
「……あれ、こんなとこに道なんかあったか」
コンクリート塀を掻き分けて、獣道のように草が踏みしめられた道が伸びていた。
二年近く下宿しているが、今まで全く気がつかなかった。
俺は興味本位でそこに足を踏み入れた。


「……何だ……ここ」
歩きながら幾度俺はこの言葉を漏らしただろうか。
道を進んで行くほど鋭かった寒さが緩和していく。
そして俺の四方八方は完璧な森になっていた。
アパートはおろか、通ってきた道さえもわからなくなっていた。
そう思うと空気さえも今までのそれと違って感じてきた。


「っと……」
十五分は歩いただろう。
ようやく森を抜け、まともな民家のようなものの前に出た。
まとも、とは言ったが町の真ん中にある家にしては大分古い家だ。
田舎のような景色だからだろうか、俺は覚えのない懐かしさに襲われた。
ふと空を見上げると、空は変わらず雪の降りそうな曇天だった。
「見慣れない格好だな……道にでも迷ったか」
声の方向に首を向けると、女性が一人立っていた。
法衣と言えばいいのだろうか。白い上着の上に青い幕を下ろしたような服を着ていた。
動物の耳のように枝分かれした帽子を被り、柔らかな笑みを浮かべて立っていた。
そして何より俺の目を引いたのは、背中で揺れている狐のような尻尾。
「あ、あんた……」
「私は九尾の妖怪、八雲藍。その反応を見たところ、やはり迷い人のようだね」
くすりと笑って、八雲藍と名乗った女性は家に向かって歩き出した。
「よ……妖怪?」
「立ち話も何だ、少し上がっていかないか。茶でも出そう」
怪しいことこの上ない。
しかし、ここが何なのかよくわからない以上彼女に従っておいた方がいいと判断して彼女の後に続いた。
座敷に上がり、炬燵のある部屋に案内された。
炬燵には先客がいた。
「あ、藍さまおかえりなさいー」
頭に猫の耳を生やした幼い少女が、炬燵の中に体を沈めて寝転んでいた。
「ああ、ただいま橙。お客さんだから少し炬燵を空けてやってくれ」
はい、と元気よく返事して、橙と呼ばれた少女は炬燵から体を出して座った。
見ると、頭の耳はまるで体の一部のように動いている。
「あんたら、一体……」
「その子も妖怪だ。炬燵にでも入って少し待っていてくれ。体も冷えているだろう」
俺は言われるままに炬燵に足を入れた。
夢中で歩いていたからか、足はとても冷えていて中がとても熱く感じた。
「お兄ちゃんは外の世界のひと?」
橙と呼ばれていた少女が不意に尋ねてきた。
「外の世界?よくわからんが、アパートの近くに見慣れない道があって、そこを抜けたらここだった」
「あぱーと?」
目を丸くして少女は首を傾げた。
今時アパートも知らないのだろうか。
「……まあ、俺が借りてる宿のことだ」
ふむふむと繰り返し少女は頷いた。
奥から先刻の九尾の女性が茶を持って出てきた。
「こら橙。その人はまだこっちの事情を知らないんだ。あまり彼を困らせるようなことを聞いちゃ駄目だろう」
湯気の昇る湯呑みが目の前に置かれた。
「まずこの世界の説明からしようか。私達を見ても大して驚いてないようだから、すぐに理解してくれると助かる」
三つ分の湯呑みを炬燵の上に置き、藍も炬燵に足を入れた。
「ここは幻想郷。詳しいことは話しても仕方がないから要点だけを話そう。
要するにここは君がいた世界とは少し違う世界だ。妖怪だの魔法だのが当たり前にある世界……程度に思ってもらえばいい」
そこまで言って藍は茶を啜った。
「偶然この世界と繋がっているスキマに、君は踏み込んでしまったのだろう。たまにいるんだよ、そういう人間がね。
君はマヨヒガというものを知っているか?」
俺は無言で首を横に振った。
「迷いの家、と書いてマヨヒガ。迷いついた人間はここか、結界の狭間にある神社か、その近辺に出てくるんだ。
そのマヨヒガが、ここ。私達の家さ」
「……俺は勉強に疲れて幻覚でも見ているのか……?」
「ふふっ……幻覚か。ならばそのお茶は冷たくて甘いだろう」
俺は湯呑みに口を付けた。
熱い。口の中に広がる茶葉の香りと渋み。
「……いや、茶だな」
「君はとても珍しい。外から来た人間の大抵はそんなに冷静にしていない。もっと慌てふためく」
藍と橙が笑った。
その笑みにつられて俺の口元も緩んだ。
「そうかもな……俺はこんな場所を望んでいたのかもしれない」
俺は余り饒舌ではないが、今は不思議と言葉が溢れてくる。
「二人が言う外の世界はな、安全ではあるけどかなり窮屈なんだ。
体面も何もかもが社会っていう規則に縛られた、柔らかい牢獄なんだ。
多分、俺はそんな世界に疲れていたんだろうな……だから、ここに迷いついたのかもしれない」
「本当に、君は変わっている。君の世界に絶望してしまってここに迷い込む人間は沢山いる。
だが、君は違う。君は世界に期待しているからこそ疲れているんだよ。そうしてここへ来た」
藍はまるで母親のように語る。
「君は君の世界で成し遂げるべきことがあるだろう?」
「……まあ、一応」
「じゃあ大丈夫だ。君は迷わずに帰ることができる。『昔のようにね』」
「昔の、ように?」
「らーんー、迷い人ってこの子ー?」
俺の言葉を、眠そうに間延びした女性の声が遮った。
「あ、紫様、お帰りになられましたか」
「丁度幽々子と茶飲んでるところをあなたが呼んだんじゃないの」
派手なフリルを誂えた、まるでドレスのような服を着た人物が俺の背後に立っていた。
「……あら、珍しい。死にそうな顔をしてない本物の迷い人ね」
「本物?」
「そう。死にそうな顔をしている奴らは迷い人の名前を借りたただの死人。
あなたは違う。何らかで道に迷っているのね。自分の行方がわからなくなるほどに」
その人は、幼い少女のようにも大人びた女性にも見えた。
「あなた、答えは見つかったかしら?」
「俺は……」
迷っていたようだ。
何に?
今生きていた世界での、意義にだ。
「……さっきの返事をしていなかったな」
藍が口を挟んだ。
「初めて会った時、もしやと思ったんだ。十五年ほど前だったかな……君は一度ここへ来た」
「十五年前……三歳の時?」
「そう。君は泣きながらじっとマヨヒガの前に立っていた。覚えてはいないだろうけどね」
当然だ。俺は小学校の時のことさえもロクに覚えていない。
「あの時、君は喧嘩でボコボコにされていたんだ。私が『負けたのかい?』と聞いたら、君はなんと答えたと思う?君は……」
『負けてなんかない!次に勝つためのパワー調べだ!』
言われてみれば、そんなことがあったような気がする。
―――いや、あったのだ。
懐かしい感じがしたのも、気のせいではないのだ。
俺は昔にもここに来たのだ。
「そう。そうさ」
藍は笑顔で何度も頷いた。
「それで……負けたのかい?」
俺は藍の顔をしっかりと正面から見た。
「まださ。勝つための休憩だ」
「いい返事だよ」
藍は俺の手にお守りのような小さな布の袋を握らせた。
「君の『喧嘩』が勝ったら、それを開けるといい。中身はその時までのお楽しみさ」
俺の背後に、急に冷たい風が流れた。
振り向くと真っ暗な穴が口を開けている。
「ここを抜ければ、あなたは外の世界に帰れるわ」
「……」
一度振り向く。
九尾の妖怪と名乗った女性は、柔らかな笑みを浮かべて立っていた。
「お兄ちゃん、また来るの?」
「さあ、な」
猫のような耳が生えた少女に返事をし、穴に一歩足を踏み入れた。
「さようなら。久々の本物の迷い人」
女性の声を最後に、俺の視界は真っ白に染まった。


視界が元に戻ると、俺はアパートから五分ぐらいの場所にいた。
辺りを見回しても獣道のようなものは見当たらない。
「夢……だったのか?」
いつの間にか握り締めていた拳を開くと、小さな布袋が握られていた。
俺は口元を緩ませ、それをポケットにしまった。
コンビニの袋に入っていた肉まんはまだ湯気を上げていた。
長いようで短い夢だったようだ。
「……さて、喧嘩の下準備でもするか」
軽い足取りで、俺はアパートに戻った。

 

月日は流れた。

 

ただの数字の羅列。
張り出された数字の中に、自分が探していた目的の数字は、あった。
自分でも勝ち目がないだろうと踏んでいた喧嘩は、逆転勝ちだった。


その帰り道、俺は財布を開いた。
中には小さな布袋が入っていた。
固く閉じられた紐を解いていく。
開けた瞬間、中から光が溢れて視界が染まった。
視界が開ける。


そこには―――、

「そんなに泣いて……負けたのかい?」

「……まさか。完勝だよ」


今はもう、あの場所へ行く手段も方法もわからない。
時々……そう、本当に時々、あの炬燵と女性が恋しくなる。
その時は再び小さな布袋を握り、静かに瞳を伏せるのだ。


あの場所に―――マヨヒガにいる、あの人に思いを馳せて。



inserted by FC2 system